取引証拠金

アンボンはオランダが1599年に基地を建設して以来のモルッカ諸島の中心地であり、天然の良港を中心として要塞と航空基地が構築されていた。連合軍の守備兵力は3,000名(オーストラリア軍1,200名、蘭印軍400名、現地軍1,400名)であった。アンボンの攻略に任じられたのは第38師団歩兵第228連隊を基幹とする東方支隊(支隊長:第38歩兵団長伊東武夫少将、兵力5,300名)と呉第1特別陸戦隊(呉一特、兵力750名)であった。第38師団は香港攻略戦を完遂した後、1月12日に香港を出発し蘭印作戦に参加していた。 1月24日、ハワイ空襲から帰投した第2航空戦隊の空母「蒼龍」と「飛龍」の艦載機がアンボンを空襲した。同地には連合軍の艦艇と航空機は認められなかった。31日未明、東方支隊主力はアンボン東側に、呉一特と第10中隊は北側に上陸した。第10中隊の中隊長は香港攻略戦で名を馳せた若林東一中尉であった。東方支隊主力は31日夕刻にアンボン市内に突入し、蘭印軍司令官カーピス中佐以下800名の守備隊は翌2月1日未明に投降した。 呉一特と若林中隊は郊外のラハ飛行場へ向かった。飛行場正面での連合軍の抵抗は激しく、呉一特は集中射撃を受けて身動きできない状態となった。さらに、アンボン占領後同地に設置予定の海軍第24特別根拠地隊首席参謀予定者だった家木幸之輔中佐も迫撃砲弾を受けて戦死した。局面打開のため、若林中隊が飛行場側面の山地を迂回して背後に出る作戦を取ることになった。突入予定時刻の3日未明、呉一特は若林中隊を待たずに突入を敢行、若林中隊も予定より遅れて6時に戦場に到着した。6時30分、飛行場守備隊は降伏した[7]。同日、アンボン市郊外で抵抗を続けていたオーストラリア軍も降伏した。東方支隊の損害は戦死55名、戦傷135名、呉一特は戦死40名、重傷50名を出した。戦果は遺棄死体340、捕虜2,182名であった。 スマトラ島のパレンバンは蘭印最大の油田であり重要な攻略目標であった。パレンバンはムシ川の河口からおよそ100キロの内陸に位置するため、上陸用舟艇による攻撃では川を遡上している間に油田設備を破壊されるおそれがあり、これを避けるためにはまず空挺攻撃によって油田設備を奇襲占領し、次いで地上部隊をもって確保する作戦が望ましいと考えられた。こうして第1挺進団(団長:久米精一大佐)が空挺降下し第38師団主力(歩兵第229連隊基幹、兵力 12,360名)が支援する陸軍最初の空挺作戦が立案された。ただし、第1挺進団は挺進第1、第2連隊を有していたものの、挺進第1連隊は1月3日に乗船「明光丸」が積載品の自然発火を起こして沈没し、人員は護衛の駆逐艦に救助されたが兵器資材の全てを失っていた。このため空挺降下は挺進第2連隊の329名のみで実施されることになった。 2月14日、降下部隊第1悌団は転職サイト を飛び立った。陥落直前のシンガポールから立ち上る黒煙がはるか南までたなびき視界は不良であった。11時30分、部隊はパレンバンの市街地北方10キロにある飛行場の東西両側に降下し、同時に久米大佐を載せた部隊長機が湿地帯に強行着陸した。飛行場からは守備隊の高射砲が火を噴き、スピットファイア5機も発進したが、飛行第64戦隊(加藤隼戦闘隊)の一式戦闘機が応戦し1機を撃墜、他を撃退した。降下部隊は逐次集結しつつ看護師 求人 へ殺到したものの、投下した重火器・弾薬が入手できず携行した拳銃と手榴弾のみで戦闘せざるを得ない兵士も多かった。市街地からは連合軍の装甲車部隊約500名が到着し激戦となったが、降下部隊は21時までに飛行場を確保した。 翌15日午後 第2悌団がパレンバン市街地南側の湿地に降下し、第1悌団と協力してパレンバン市街に突入、同市を占領した。戦果としては石油25万トン、英米機若干、その他の兵器資材を鹵獲し、放火により製油所工場の一部に火災が発生したものの大規模破壊は避けられた。死傷者は、降下人員329名中、戦死39名、戦傷入院37名、戦傷在隊11名であった。第38師団主力も14日にバンカ島に到着、15日に先遣隊がパレンバンに到着した。師団主力は18日にパレンバンに到着、周辺地域を確保し作戦目的を完全に達成した。 2月19日、金村支隊(第48師団台湾歩兵第1連隊の一部)がバリ島に上陸した。守備隊の抵抗はほとんどなかった。だがカレル・ドールマン少将を司令長官とするABDA艦隊のうち軽巡洋艦3隻、駆逐艦7隻が出撃し、19日深夜から20日早朝にかけてバリ島沖海戦が生起した。日本艦隊は駆逐艦4隻と劣勢であったが、ABDA艦隊は多国籍艦隊のため部隊として円滑に行動できるものではなかった。日本軍が駆逐艦1隻大破の損害を受けたのに対して、ABDA艦隊は駆逐艦1隻が沈没、軽巡洋艦1隻が中破し撃退された。 チモール島には20日未明に東方支隊による上陸作戦が行われた。チモール島西部のクーパンには伊東支隊長が指揮する歩兵第228連隊第1、第3大隊基幹の部隊が上陸し、さらに横三特の空挺部隊が降下した。連合軍の守備兵力は1,940名(オーストラリア軍1,500名、蘭印軍240名、現地軍200名)であった。日本軍は3方向からの包囲攻撃を企図したが、連合軍はクーパンを放棄して退却しようとした。退路を塞いでいた日本軍の右翼隊200名は連合軍の脱出を阻止しようとしたものの半数が死傷する損害を受け突破された。日本軍は追撃し23日に連合軍は降伏した。連合軍の遺棄死体は296、捕虜1,136名であった。東方支隊の損害は戦死67名、戦傷56名であった。 同日、ポルトガル領に属していたチモール島監視カメラ ディリに土井連隊長の指揮する第2大隊基幹の部隊が上陸した。連合軍の守備隊は1,300名(オーストラリア軍300名、蘭印軍400名、現地軍600名)で、大部分は山地に逃亡した。捕虜は33名であった。同地にあったポルトガル軍は抵抗しなかった。東方支隊の死傷は7名であった。 ジャワ島内を進撃する日本軍日本軍はついに最終目標のジャワ島へ迫った。第16軍のジャワ島への第一次上陸兵力は55,000名と予定されていた。作戦計画は次のようなものであった。 第2師団基幹の主力はジャワ島西部バンタム湾のメラク海岸に上陸する。那須支隊(支隊長:第2歩兵団長那須弓雄少将)はボイテンゾルグ(現在のボゴール)を占領してバンドン要塞と首都バタビア(現在のジャカルタ)の連絡路を分断し、第2師団主力はバタビアを攻略する。しかる後に東海林支隊と協力してバンドン要塞を攻略する。 東海林支隊(第38師団歩兵第230連隊基幹)はジャワ島中部のエレタンに上陸してカリヂャチィの飛行場を占領し、第2師団のバタビア攻略を支援する。 第48師団はジャワ島東部のクラガンに上陸しスラバヤを攻略する。 坂口支隊(第56師団歩兵第146連隊基幹)は同じくクラガンに上陸し、400キロを踏破してジャワ島南岸の重要港湾チラチャップを攻略する。 航空戦力は、第3飛行集団179機、蘭印部隊50機、第11航空艦隊190機、第1航空艦隊(機動部隊)190機を予定。第16軍主力の地上作戦には第3飛行集団が、第48師団の地上作戦には海軍機が直接協同する。 第16軍主力は2月18日に仏印のカムラン湾を出港した。データ復旧 少将の率いるABDA艦隊は日本軍の上陸を阻止すべく全力をもって出撃し、2月27日、日本軍第3艦隊との間でスラバヤ沖海戦となった。日本軍は重巡洋艦「羽黒」「那智」および軽巡洋艦2隻、駆逐艦14隻、ABDA艦隊は英重巡「エクゼター」、米重巡「ヒューストン」および軽巡洋艦3隻、駆逐艦12隻とほぼ同数であったが、ABDA艦隊はやはり部隊としての円滑な行動を欠いた。28日までの交戦で、日本軍の駆逐艦1隻大破に対して、ABDA艦隊では蘭軽巡「デ・ロイテル」と「ジャワ」、蘭駆逐艦「コルテノール」、英駆逐艦「エレクトラ」が撃沈され、司令官ドールマン少将も戦死した。